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平沢貞通の画業《Hirasawa’s Work》(1)四つの雅号を持つ「地平線画家」
2026年06月05日

矢部恵子(アーキヴィスト、東京在住)
イントロダクション
本稿は、画家・平沢貞通[ひらさわさだみち](1892~1987)の軌跡を紹介するものである。平沢は、北の大地・北海道に水彩画檀の礎を築き、1928(昭和3)年に岡田三郎助らと「テンペラ画会」を結成し、45歳で同会会長に就任した。同年、帝展(新文展)無鑑査の地位を得て中央画壇で活躍した。

ご存じの方も多いと思うが、平沢という人物について述べておこう。
敗戦からまもない1948(昭和23)年1月26日に東京市(現在の東京都豊島区)の帝国銀行椎名町支店で発生した大量毒殺事件(通称・帝銀事件)の死刑囚に処され、56歳で囹圄[れいご]の人となった。確たる証拠もなく極刑を言い渡された画家の権威と功績は中央画壇から消え、捜査の名目でアトリエから作品が次々と押収された。個人所蔵者は世間の風評被害に晒され、作品を手放した。その結果、平沢作品の多くが散逸の一途を辿ってきた。
平沢の無実救援を目的に弁護団が軸となって結成された任意団体、ならびに団体の活動に共鳴した市井の支援者の物心両面の支えが、画家の心に火を灯した。苦境のさなかにありながらも、平沢は窓がなく光の差さない独房をアトリエとして、自ら雅号を「光彩[こうさい]」と改め、無実冤罪を信じる有識者、市井の人々、支援団体等から差し入れられる画材を用いて90歳頃まで絵筆を握り続けた。
絵を描き続けることは、平沢にとって「生きている」ことの証であった。と同時に「画家」としての矜持を保ち続ける術であったといえよう。
平沢作品は今日、市立小樽美術館(北海道小樽市、11点)、福原記念美術館(北海道鹿追町、10点)、札幌芸術の森美術館(札幌市、2点)、北海道立近代美術館(札幌市、1点)の道内4美術館と、福島県の郡山市立美術館(1点)、そして母校・北海道小樽潮陵高等学校(2点)に収蔵されている。
独房で描いた作品の多くを平沢は「囹圄」と名付けた。これらは雅号「光彩」の作として、今日、個人所蔵者のコレクションとして現存する。
長らく画家としての存在を抹殺され、評価に乏しい時期が続いていたが、近年、道内美術館の所蔵コレクションの展示を通じて、再評価の兆しがみられるようになってきた。
平沢貞通の雅号の由来は、自ら執筆した「雅号を改むるの記」1にその経緯が綴られている。
「不朽[ふきゅう]」(萌芽期・17~22歳)、「三味二[さみじ]」(成長期・22~25歳)、「大暲[たいしょう]」(大成期25~56歳)、「光彩」(獄中期・56~95歳で没する)の四つの雅号をもつ平沢は、殊に「地平線」を好んで描いた。画家を志す前から晩年まで描き続けており、四つのすべての雅号に作品が存在する。
幼少期から多感な少年期を過ごしてきた北海道の雄大な風景を捉えるために、現地へ何度も足を運んだ。後に「地平線画家」と自称して大成期の「大暲」を名乗ってからもその制作スタイルを変えることはなかった。現地に赴いて自然の様をよく観て描くことの大切さを、平沢は、「自然観照」という言葉を用いて、ときに後進に伝え、ときには美術書に投稿してきた。

よく観て描くことが叶わなくなった「光彩」時代における作品は、是か非か